無意識を意識するには

 惡の華を見ましたが面白いですね。去年の謎の彼女Xといい講談社は変な原作を持ってきますね。

 一話の構成は、日常を淡々と描いてこれから起こる非日常的体験に対するお膳立てといった感じですね。当然ですが非日常という起伏を描くには日常という平坦を描く必要があるわけです。非日常を続けまくったら非日常性が強化されるかといったらそうではなくて、それがその世界の日常なんだなと認識されるだけです。裏拍をずっと続けたらいつの間にか表拍として聞こえるように。また、ああいった生徒時代の帰り道での友人との会話とかあまりにも日常過ぎてわざわざ意識して覚えようとしないため記憶に残らないものですよね。それを年取って当事者ではなく第三者として観察せざるをえない状況になってどう思うか。アニメは実写より観察するようになる、と高畑勲が言ってた気がしますが、アニメの場合背景は基本変化しないので必然的に動いているモノに注目するわけですね。で、惡の華の場合細田守のように影もないので余計ちょっとした目の動きだとか手の動きだとかに目が行くわけです。関係者の方が、これをトレスしてるアニメータは勉強になるだろうなと言ってましたが、自分自身の無意識のうちにやってるちょっとした動きっていうのは当然気づくわけがないので、そういった動きを描こうと思ったら"意識的に"他人が無意識にやっている行為を観察しないといけないわけですね。しかもそういった無意識な動きが動きを自然に見せる要素ともなりうるので、自然な動きを描く(特に日常生活での)っていうのは難しいわけです。今回アニメータはトレスをする際に、必然的にそういった無意識の動きの線を引くことになって人間って存外動いてるんだなというのを思わざるを得なくて、結果として勉強になるということですね。友人の山田の髪とか小泉純一郎の切り抜き並にやりたくないですが。

塔のある風景

http://www.flickr.com/photos/kareobana/sets/72157631651892208/

 街中から見える塔って惹かれませんか。特に八坂通から見る法観寺の五重塔は格別ですね。ということで、塔とその周りの風景を題材に何か撮ろうと前々から考えていて、それと同時に写真の写真を撮る表現も何かしたいなとも考えていて(こういうのは例として、Dear Photographのような昔の写真と現代の風景との対比させているものや、PENCIL VS CAMERAみたいな虚実が一体化したようなものがありますね)結果としてああいう感じになりました。標準域で撮る、周りの景色が十分映るよう塔が全体の1/4にすっぽりはまるぐらいの大きさに撮ると決めていたので、撮影範囲は自ずと限られてその中でいい構図を探す必要性があったり、上下左右方向だけでなく奥行き方向も合わせる必要性があったり、塔が右上ならバランス保つために左下に何か副主題がほしいなと考えながら撮ったり、なかなかに面白かったです。これからも適当にテーマを見繕っては撮って行きたい。

iOS 6の新Map登場によりAndroidの敗北が確実になった件について

 今回のiOS 6の新MAPを受けて、これでAndroidの勝利は確実になったなと思ったAndroid原理主義者は多いように思う。しかし、これは非常に甘い願望であり理知的な分析を欠いていると言わざるを得ない。
 まず、この新搭載のMapの最大の特徴は「ないものがある」という点、そしてこのMapにはiOS 6搭載機を所持する者しかアクセスできないという点にある。察しのいい方はもう気づいたかもしれない。つまり、このMapはiOS 6を使用できる者のみが理解できる暗号代わりとなる可能性があるのである。例えばこういうことが想定される。

「次の日曜空いてる?」
「うん、空いてるけど何で?」
「○○と☓☓と遊ぶ予定やねんけどかれをばなも来いひん?」
「行く行く」
「じゃあ、1時にパチンコガンダム駅で集合ってことで」
「えっ、何処て?」
「それじゃあ、日曜にまた!」
「えっ…ちょっと」
「ツーツー」
--こういうことが何度かあって---
「かれをばなって何度誘ってもトンズラするし、もう誘うのやめるわ」
「えっ…」

 このような陰湿な同調圧力に屈せずにいられる猛者は少数派であろうし、特に同じ物を所有することで仲間意識を確認しあう風習のある(私を含む)女子中高生にこういった事例は多く見られるようになるであろう。

 以上の分析から、残念ながらAndroidの敗北は(特に陰湿な同調圧力の強い日本において)決定的であると言わざるをえない。

ケからハレへのトランジション

 カーブミラーというのは基本的に交差車線の車の存在の有無を確認するためにあるため、当然カーブミラーの中に映る世界というのは道路が中心となり空は見えても占める割合は小さい。従って、アスファルトのねずみ色が支配的な世界、これがカーブミラーの中の日常的な世界となるわけである。しかし、カーブミラーに近づき仰角が増すと、空の占める面積は広がって空の色が支配的となり、同時にカーブミラーの機能性は損なわれる。カーブミラーはただの鏡と化し、その中にただ非日常的な空間を映すだけとなる(歩いてる時にもカーブミラーをよく見る人にとってはその光景は日常的かもしれないが……)。

 カーブミラーと似たものにバックミラーがある。カーブミラーの場合機能を果たすかどうかは見る側の位置に依存するが、バックミラーの場合運転手に対するバックミラーの角度に依存する。バックミラーを普段とは異なり、ただ上向きにして空を映るようにして(危険だが)走ってみるだけでも先程と同様、今まで経験したことのない非日常的な体験をすることができるはずである。

 普段見慣れて日常的だなと思ってる空間も見方を変えたり少しの工夫をすれば忽ち非日常的空間に変化する。

 

差異の認識

 男女の違いなんかはちんこの有無もあるし学校等の社会的な場で区別して扱われるので否が応にも認識するし、表面的な運動能力、学力も体育やテストだったりで自分と他人とは違うんだというのは認識しますよね。でも、高次脳機能障害みたいな例を出さなくても記憶力だったり、価値観だったり考え方だったりの内面的な部分というのは、交流したり議論をしたりすれば自分と比較することできて差異や同一性を認識できるけど、外面的には当然出てくるものではないので比較できてないことの方が多くなる。で、その比較できていない状態において、多分人は他人と自分は同一であると仮定すると思うんですよね。で、その同一性という意識はその状態が普通であるという意識に繋がって、例えば差異のある人物が出てきた場合にこの人は普通ではないと認識して相手を否定して自分と同じ方向に向けようとする、なぜならそれが自分にとって普通であるから。

カテゴライズ

 「言語は世界を切り分ける」は「ことばと思考」の第一章の章名であるが、その切り分け方は言語によって様々である。例えば「ことばと思考」では「持つ」という動作を例にあげていて、英語ではどのように持つかを区別せずに"hold"、日本語では幾分か区別して"持つ"の他に"背負う"、"担ぐ"、"抱える"等、中国語では"拿"、"顶"、"抱"、"背"、"提"、"端"、"夹"、"扛"、"挎"、"拎"、"捧"、"托"などなど20ほどに細分化するらしい。単純に"歩く"という言葉でも英語では様態にあわせて"walk"の他に、"falter"、"lumber"、"lurch"、"march"、"plod"、"prowl"、"shamble"、"stride"、"stroll"、"strut"、"swagger"、"toddle"、"trot"、"trudge"、"waddle"と無数にある。"気取って歩く"という言葉を英語にする際には、大抵の人は"歩く"は"walk"だけど"気取って"は英語ではなんて言うんだろ、のように"walk 副詞"といった形でまず考えるだろうが、当然"strut"と一語で書いたほうが英語らしい。外国語を学ぶ際にはこういった言語によって世界の切り取り方が違うという意識を持つ必要性がある。

 こういった切り取り方の違う言語の言葉が外来語として日本語の中に入ってきた場合どうなるか。例えば英語では"run"という行為の切り分け方も多く、その内"ダッシュ"、"スプリント"、"ジョギング"といった言葉が日本語の"走る"という言葉を切り分ける単語として入ってきている。当然こういった単語というのは音声と意味が一対一対応しているわけであるが、漢語の場合はやや異にする。音読みは異なるが訓読みは同じという、所謂同訓異字の状態となる場合があるからである。この場合、音声と意味が一対一対応していないので、「時間をはかる」と聞いた場合には、"時間"だから"量る"、"測る"ではなく"計る"だなといった風に、"はかる"という音から更に漢字を同定する必要性がある。小学校から同訓異字の訓練は受けてるので普通のことになっているが、非常に複雑なことをしているわけである。先ほどの"はかる"のように皆が使い分けが出来る、文脈から漢字を同定できる場合と、表外漢字、表外訓を用いたような読む場合には問題ないが(大抵フリガナが振ってあるので)聞いた場合にはある代表字しか想起させられない場合とがある。よく白川静氏が例に出すのが"おもう"という言葉で、この言葉の表記は"思う"に代表されて"念う"、"想う"、"懐う"といったものは表外訓とされて使い分けも学ばないので、"夭逝した友人を懐う"と言ったつもりでも、おそらく聞き手は"夭逝した友人を思う"としか解釈しない。こういったもはや書き言葉でしか存在しえない表現を、話し言葉でも通じさせるにはどうすればいいかというのを最近はよく考えているんだが、例えば先程の例では相手が"懐う"を"おもう"と読むことを知っている必要性があるし、知っていると仮定しても"思う"ではなく"懐う"を想起させるには、例えばその文の前に"懐かしい"等の言葉を入れて相手に"懐"という字を意識させるといった手段があるのかなとも思ったけどなかなかまとまらない。んー、そもそも無理なのかもしれぬ。

 

 同訓異字に関しては以下の論文が面白かったです。

現代小説における同訓異字の選択による表現法
http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/handle/2065/27627

言葉の強度

 言葉は各々強度(刺激度)を持っていて、方向は聞き手、話し手の関係性によって決まる。第三者がその方向を正確に把握するのは難しく、発せられた言葉に対するイメージ、話者に対するイメージによって実際に認識する方向は大きく歪められる。刺激の強い言葉は好きな人、嫌いな人に対して使われ、無関心な人には刺激の弱い言葉が使われる。例えば、「(相手に対して)好き!」という言葉は好きな人に対しては勿論嫌いな人に対しても皮肉として用いられうるし、「(相手に対して)嫌い!」という言葉は好きな人に対しても使われうるだろう。が、「好き」という言葉にはまず正の印象を抱くし、「嫌い」という言葉には当然負の印象を抱く。従って、第三者が、ある人が誰かに対して「嫌い」と言ってるのを観察する時、まずはその言葉をマイナスの方向を伴ったものとして認識するのは普通である。だが、観察している内に表情や文脈を汲み取って徐々にその方向を修正するであろう(「問題発言」等の類はその第一印象のみで語られるのが問題である)。しかし、ここで差別といった問題が絡むと話はややこしくなる。観察による修正より差別性の有無の方が重視されるようになるからである。

 そもそも、負の印象を持つ言葉をわざわざ正の方向として使うのかというと、その負の印象ゆえ正の方向に使用した時の強度が非常に大きくならからで、これは親密度のバロメーターと言ってもいいだろう。その使用法を否定するのは親密となることもある種否定することになるわけで、結局、嫌いという感情を否定するならば同時に好きという感情も否定しかねず、残るのは無関心のみとなるのではなかろうか。