カテゴライズ

 「言語は世界を切り分ける」は「ことばと思考」の第一章の章名であるが、その切り分け方は言語によって様々である。例えば「ことばと思考」では「持つ」という動作を例にあげていて、英語ではどのように持つかを区別せずに"hold"、日本語では幾分か区別して"持つ"の他に"背負う"、"担ぐ"、"抱える"等、中国語では"拿"、"顶"、"抱"、"背"、"提"、"端"、"夹"、"扛"、"挎"、"拎"、"捧"、"托"などなど20ほどに細分化するらしい。単純に"歩く"という言葉でも英語では様態にあわせて"walk"の他に、"falter"、"lumber"、"lurch"、"march"、"plod"、"prowl"、"shamble"、"stride"、"stroll"、"strut"、"swagger"、"toddle"、"trot"、"trudge"、"waddle"と無数にある。"気取って歩く"という言葉を英語にする際には、大抵の人は"歩く"は"walk"だけど"気取って"は英語ではなんて言うんだろ、のように"walk 副詞"といった形でまず考えるだろうが、当然"strut"と一語で書いたほうが英語らしい。外国語を学ぶ際にはこういった言語によって世界の切り取り方が違うという意識を持つ必要性がある。

 こういった切り取り方の違う言語の言葉が外来語として日本語の中に入ってきた場合どうなるか。例えば英語では"run"という行為の切り分け方も多く、その内"ダッシュ"、"スプリント"、"ジョギング"といった言葉が日本語の"走る"という言葉を切り分ける単語として入ってきている。当然こういった単語というのは音声と意味が一対一対応しているわけであるが、漢語の場合はやや異にする。音読みは異なるが訓読みは同じという、所謂同訓異字の状態となる場合があるからである。この場合、音声と意味が一対一対応していないので、「時間をはかる」と聞いた場合には、"時間"だから"量る"、"測る"ではなく"計る"だなといった風に、"はかる"という音から更に漢字を同定する必要性がある。小学校から同訓異字の訓練は受けてるので普通のことになっているが、非常に複雑なことをしているわけである。先ほどの"はかる"のように皆が使い分けが出来る、文脈から漢字を同定できる場合と、表外漢字、表外訓を用いたような読む場合には問題ないが(大抵フリガナが振ってあるので)聞いた場合にはある代表字しか想起させられない場合とがある。よく白川静氏が例に出すのが"おもう"という言葉で、この言葉の表記は"思う"に代表されて"念う"、"想う"、"懐う"といったものは表外訓とされて使い分けも学ばないので、"夭逝した友人を懐う"と言ったつもりでも、おそらく聞き手は"夭逝した友人を思う"としか解釈しない。こういったもはや書き言葉でしか存在しえない表現を、話し言葉でも通じさせるにはどうすればいいかというのを最近はよく考えているんだが、例えば先程の例では相手が"懐う"を"おもう"と読むことを知っている必要性があるし、知っていると仮定しても"思う"ではなく"懐う"を想起させるには、例えばその文の前に"懐かしい"等の言葉を入れて相手に"懐"という字を意識させるといった手段があるのかなとも思ったけどなかなかまとまらない。んー、そもそも無理なのかもしれぬ。

 

 同訓異字に関しては以下の論文が面白かったです。

現代小説における同訓異字の選択による表現法
http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/handle/2065/27627