無意識を意識するには

 惡の華を見ましたが面白いですね。去年の謎の彼女Xといい講談社は変な原作を持ってきますね。

 一話の構成は、日常を淡々と描いてこれから起こる非日常的体験に対するお膳立てといった感じですね。当然ですが非日常という起伏を描くには日常という平坦を描く必要があるわけです。非日常を続けまくったら非日常性が強化されるかといったらそうではなくて、それがその世界の日常なんだなと認識されるだけです。裏拍をずっと続けたらいつの間にか表拍として聞こえるように。また、ああいった生徒時代の帰り道での友人との会話とかあまりにも日常過ぎてわざわざ意識して覚えようとしないため記憶に残らないものですよね。それを年取って当事者ではなく第三者として観察せざるをえない状況になってどう思うか。アニメは実写より観察するようになる、と高畑勲が言ってた気がしますが、アニメの場合背景は基本変化しないので必然的に動いているモノに注目するわけですね。で、惡の華の場合細田守のように影もないので余計ちょっとした目の動きだとか手の動きだとかに目が行くわけです。関係者の方が、これをトレスしてるアニメータは勉強になるだろうなと言ってましたが、自分自身の無意識のうちにやってるちょっとした動きっていうのは当然気づくわけがないので、そういった動きを描こうと思ったら"意識的に"他人が無意識にやっている行為を観察しないといけないわけですね。しかもそういった無意識な動きが動きを自然に見せる要素ともなりうるので、自然な動きを描く(特に日常生活での)っていうのは難しいわけです。今回アニメータはトレスをする際に、必然的にそういった無意識の動きの線を引くことになって人間って存外動いてるんだなというのを思わざるを得なくて、結果として勉強になるということですね。友人の山田の髪とか小泉純一郎の切り抜き並にやりたくないですが。